アトリエ亜紅
そして、終戦の年の昭和20年(1945年)8月9日に当時の満州で、ソ連軍の攻撃に遭遇、それからの約一年間をソ連軍軍政下の満州にて生活する事になる。その生活の中で法律や政治のあり方は、その立場に立つ人の人格や考え方によって大きな差が出る事を発見し、「人、人、人、全ては人の質にある」という事を悟ったという。もし、生きて日本に帰る事が出来れば、私学校を開いて、青少年を集め、道を説いて、勇気と自信と行動力と正義感と慈悲心に満ち溢れた、強くて、優しくて、正しい若者を多く育てたいと念願するようになったという。 しかし、実際に帰国してみると、祖国は道義も秩序も無い弱肉強食の修羅場のような状況で、特に次代を担う青少年の荒廃は目を覆うばかりだったという。「これではいけない、これからの半生を骨のある青少年の育成に捧げよう」と決心し、四国の香川県・多度津町にて主として釈尊の正統仏教の教えを説きながら、人作りの重要性を訴えたが、中々人々はついてきてくれなかった。肝心の若者達も同じで、ほとんどは長続きはしなかったという。そんな状態で思い悩んでいた時に、歴史上の人物で、中国・河南省・嵩山少林寺に座禅行と易筋行を伝えたとされる菩提達磨の夢を見て、そこからはっと閃くものがあった。「そうか、はるばるインドから中国に正統仏教を伝える為に渡った達磨が、この行を弟子達に学ばせたその故事に倣って、今こそその達磨の行動を日本に再現させよう」と思い立ち、その為に人集めの手段として、餌として、少林寺拳法を開創する事を思い立ったという。これを長期間に渡って教えながら、道を説けば、必ず次代を担う青少年に不屈の精神力と、金剛の肉体とを合わせ持ち、その上で自信と勇気と行動力を与える事が出来ると確信したという。 こうして、釈尊の自己確立・自他共楽の教えを「力愛不二・拳禅一如」の法門として編成し、used trucks で学んだ各種の拳法を再編整理して、理論の裏付けを行い、さらには戦中・戦後を通しての貴重な白兵戦の体験と創案を加えて、宗門の行としての形を整えた。こうして少林寺拳法が開創されて、その拳法の修行の合間、合間に口が酸っぱくなるほど、釈尊の教えを中心に祖国愛や民族愛等の人生観・世界観を当時の青少年達に説き続けたという。そして、昭和55年(1980年)に宗道臣が心不全で69歳で死去するまで、この金剛禅運動と名付けられた運動は続けられて、現在は娘の宗由貴に引き継がれている。 実際に宗道臣自身が、後年に、単に武道団体を創始したかったのではなく、「敗戦した後の日本の若者の堕落ぶりは目を覆わんばかりであった。used trucks for sale した日本民族の自立を再度うながすべく、一人でも気骨ある若者を育てる教育の場を創造したかった」と回顧している。 法衣と呼ばれる仏門の服装をまとい、おもに二人一組で行われる演武は、飛燕と呼ばれる突きと蹴りの攻防、そして鋭い気合の応酬、床にたたきつけるがごとくの投げ技と関節技、そして圧法と呼ばれる技法で行われる。静と動を同時に行う禅の拳法と称された。創始当時には他流派武道から多く転籍があり当時としては魅力ある技術体系であったと想像される。一方、少林寺拳法は戦後発祥であるが、日本九大武道(日本武道館認定)の一つとなった。また金剛禅と呼ばれる思想は、創始60年を経過した今も、剛柔一体の技法と同様に多くの人々の共感を呼び、さらに会員数は増え続けているとされている。 同時に別派を認めない世界で唯一の宗教団体及び武道団体として結束力が強い。宗が戦前に中国の臨済宗の総本山である嵩山少林寺を訪れた際に、彼が修業中であった義和門の法門継承式を少林寺にて行い、またその際に白衣殿北壁の羅漢練拳図に描かれた相対演練を見て深く感銘を受けた意味から後日「少林寺拳法」と流派名をつけた経緯がある。したがって技法的には少林拳、少林寺の歴史とは直接は関係が無い。宗道臣が中国滞在時に指導を受けた各種中国拳法を取り入れ、また幼少時より祖父宗重遠から教わった不遷流ほか日本の古武道を混合させて試行錯誤のうえ作り上げた(出典:「秘伝少林寺拳法(光文社)」)日本独自の武術であり、宗派である。終戦直後の香川県多度津町で宗道臣は「これはシナの武術じゃ。喧嘩の仕方を教えてやる」と言って少林寺拳法を広めていった。 嵩山少林寺には昭和50年代に宗道臣の記念碑が建てられており、日本から多数表敬訪問している。同寺の公式ホームページに「日本武士宗道臣」の記述がある、リーリンチェイ主演映画「少林寺」に少林寺拳法の山崎博通(現・禅林学園校長)が出演している、used truck が日本の香川県少林寺拳法本部を訪問している、など交流面は多く、嵩山少林寺と日本少林寺拳法連盟はお互いを認め合っている。ちなみに嵩山少林寺の武術は単に少林拳と呼ばれていることが多く「拳法」と言う呼称は中国においてはあまり使われない。 少林寺拳法の開創の目的は、あくまでも宗門の行であり、単なる武道やスポーツでは無いという視点に立ち、「金剛禅」という独自の教えに基づいて、自己確立・自他共楽の教えを元に、力愛不二・拳禅一如・守主攻従・不殺活人・剛柔一体・組手主体という独自の教えを説いている。それに加えて、脚下照顧・合掌礼・作務・服装等があり、さらには鎮魂行・聖句・誓願等がある。 開祖・宗道臣が生まれてから満州へ渡り中国で過ごし、敗戦後日本に帰国するまでに見て学んだ武術・武道を改良し体系化されたものをused truck for sale の護身の技としている。拳法は三法二十五系に別れ、突き蹴り等打撃攻撃に対する守備反撃方法の「剛法」。腕や衣服を捕まれたり、背後からの攻撃に対する抜きや投げによる反撃方法の「柔法」がある。もう一つは整骨法の「整法」と呼ばれる。少林寺拳法の教えに「剛柔一体」というものがあり、どちらも均等に修練しないと上達していかないと言われている。 宗道臣「少林寺拳法教範」によれば以下の記述がある。 「…そのことが解ってからの私は、柔道や空手、ボクシング、相撲その他を研究し、その技をこの原則に当てはめ分解してみると、いずれも同じであるということを確かめることが 出来たので、帰国後、私は全く新しい観点から中国の拳技や把式の再編を思い立ち、護身術にもなり、保健体育法にもなり、その上人格完成に貢献できる精神修養法にもなる、心身一如の修道法の創設を志し、中国の嵩山少林寺の白衣殿の壁画に残る印度伝来の阿羅漢の拳を、原始時代の今日にふさわしい形式に組み替えて、行うことに踏み切り、祖師の啓示と先師の教えを基として、これを戦時中に得た貴重な実戦の体験と私の創案を加えて慈に日本正統少林寺拳法を編んだのである。」